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Posted by LOGPORT運営事務局 at

2017年02月07日

夕めし


越後OYAJIの夕めしです。

一応スパゲティです。強烈なにんにくと唐辛子です。塩胡椒で基本的な味をつけて
最後に麺つゆをかけて仕上げています。スパゲティなのか焼きそばなのか焼きうどんなのか?
乾麺で300g一袋を茹でて全部たべました。何となくソーセージが入っています。

サラダはロメインレタスと胡瓜とバナナです。
マヨネーズをたっぷりとかけて食べました。でも私は「マヨラー」ではありません。



わけのわからないものを喜んでたべています。

大好きなアサリの味噌汁とたくわんがセットされています。
ますますわけがわからない越後OYAJIの「夕めし」でした。。。。

えちごおやじ 越後OYAJI 越後おやじ 越後親爺 エチゴオヤジ ECHIGO OYAJI  えちごOYAJI   


Posted by 越後OYAJI at 21:38Comments(2)

2017年02月07日

映画 "沈黙"


映画「沈黙」を観てきました。



映画館で映画を観たのは超久しぶりです。何年ぶり?・・・いや何十年ぶりでは。。。

遠藤周作の原作による「沈黙」はキリスト教純文学です。
原作を何度も繰り返して読みました。

遠藤文学は文体にリズムがあり、分かり易い言葉で、センテンスが短く
心地よい音楽のように身体に染みこんできます。とても読みやすいというのが特徴でもあります。
色々な作品を読みました。私の人生に大いに影響を与えられた作品もあります。

しかし、この「沈黙」という作品はテーマが一つでは無く。複雑なテーマが絡み合っています。
歴史小説的な要素、宗教文学としての要素、信仰告白的な要素、逆説的に言えば
ニーチェ的な反宗教的な虚無主義にとらわれた要素、悲劇的な要素、またこれも
逆説的ではあると思いますが喜劇的要素、日本人として自虐的な要素、等々・・・
遠藤文学にしては難しい文体で綴られています。
むしろ日本語として読みにくい作品になっています。
繰り返し読んでも、途中で飽きてしまい、眠くなる作品でもあります。
でも最後まで読んで、また読んで、繰り返し読んで・・・
遠藤周作からのメッセージをどうにか受け取りたいと思ったのでしょう。。。
自分でも不思議です。

いろいろな要素が絡み合っているが故に賛否両論が渦巻いた作品でもあります。
今から50年ほど前に書かれて作品で遠藤周作の代表作とされています。

映画化されたのは今回ばかりではありません、過去にも何度か映画化されています。
しかし、今回の映画は原作に忠実で内容がとても良い。ということで映画館に足を運んだのです。

映画の内容は観る以外にうまく伝えることができません。
興味のある方は以下をご覧下さい↓↓↓↓↓
http://ciatr.jp/topics/15586

さて、映画に出演している俳優達です。
上記から出演者は誰であるかはわかると思います。

重要な役割としてキチジローがあげられます。窪塚洋介が演じています。
越後OYAJI的には少し不満でした。原作ではもっと小ずるくて、言い訳のできないほど
人間としての下の下という設定でした。しかし、映画では弱い人間として描かれ
窪塚もそのように演じました。人間のもつ弱さの象徴としてです。聖書に出てくるイエスを裏切る
ユダ的な人物として登場させています。
しかし、遠藤周作はキチジローこそ自分である。言っています。
複雑な人間心理の中で右に左にと揺れ動く様がまさに自分なのだというのです。
小ずるい、もっとも弱い人間、神の支えがなければ生きていくことなぞできない人間。
遠藤が作品の中で伝えたかったキチジロー像を窪塚が演じきれたのかは疑問でした。
しかし、この役を遠藤の思いのように演じきれる人などといないでしょう。そう言う意味では
最も難しい役どころだったでしょう。
何層にもなっている人間の心のなかでキチジローが表出してくることは誰にでもあります。
遠藤周作が自分に擬えてキチジローを作品に登場させたのも理解できるのです。
原作を読むとよくわかるのですが、キチジローは越後OYAJIそのものでもあります。

浅野忠信が演ずる通詞(通訳のこと)は見事に演じきっていました。
お上に忠実であること。危険な宗教であるキリスト教へのへしまがった感覚。
当時のこととは言え、人間を人間とも思わぬサディスティックな一面。
そんな人間を上手に演じていました。

井上筑後守を演じたのはイッセー尾形でした。
原作ではとんでもないサディストとして登場しています。この井上筑後守が考える
キリシタン信徒への虐待は到底人の心を持った人物とは思えないものです。
棄教させるためには手段を選ばないのです。水責め、穴吊り、熱湯地獄の拷問。
世界史の中でもこれほど残酷な責め苦はないほどです。
この井上も原作では小ずるく、人間の醜さをとことんまで心の中に持つ人物として描かれています。
表情では温和で穏やかで・・・・ 内面ではサディストそのもの人間として。

意味は違うのですが「面従腹背」という言葉は遠藤周作から教わった言葉です。
井上は「面妖腹背」的な人物です。「面妖腹背」などという言葉はありません。
私が井上のために作った言葉です。にこにことした表情はまさに面妖です。
その「おもてづら」とは真反対のもう一人の人間が存在する。
井上筑後守はそんな人物でした。
イッセー尾形がそんな井上筑後守を見事にに演じていました。
演技派のイッセー尾形ですが、どうしても演じきれなかった部分がありました。
それは本当の人間の良さをもつイッセー尾形そのものが出ていたことです。
原作の井上は悪魔そのものです。
その悪魔性を演じきることはイッセー尾形には無理だったのでしょう。

殉教する村人達を演じた役者達はすさまじい演技をしました。
圧巻という言葉がふさわしいか、すごいという言葉か、はたまた・・・
とにかく私の心を揺さぶる演技には目を見張るものがありました。

主人公のロドリゴ神父を演じた人。映画界に疎い越後OYAJIはこの外人俳優の名前が
よくわかりません。映画界では有名な人のようです。彼の演技も素晴らしかった。
その他、巡察師ヴァリニャーノ神父、そしてもう一人の主役であるフェレイラ神父など
難しい役を見事に演じ切っていた。。。。

沈黙・沈黙・サイレンス・Silence・沈黙・・・・
この映画のテーマである"沈黙"
神は沈黙を守るものなのか。。。
殉教していく村人達や日本で迫害され殉教していく宣教師達。
その人々が嘆き苦しんでも神は沈黙している。。。。
はたして遠藤周作の原作のテーマは「神の沈黙」なのであろうか?

極限のぎりぎりのところで神はロドリゴ神父に語りかける。私を棄てなさい。。。
神を棄てなさい。そしてロドリゴが持つ悲しさ・絶望・悔い・弱さ・・・その全てを共有しているのが
神なのだ。そうキリスト・イエスなのだ。私はその為にいる。。。。そのために人として現れ
十字架にかけられたのだ。。。
決して神は沈黙なぞしない。必ず必ず必ず私達の心の奥底に語りかけていてくださる。

遠藤周作はあまたの作品をこの世に残しました。
この作家の大ファンである越後OYAJIでも全作品を読破しているわけではありません。
遠藤作品は常に弱い者を描いていきます。弱い者と同行しようと努めているように書きます。
この作品は遠藤周作のキリスト教信仰の心の奥底を描いた作品なのでしょう。
遠い異国から命がけで日本に布教にきた二人の神父が日本人の信仰の強さと弱さを
目の当たりにして心が揺れ動く。本来信念の人である神父でさえ揺れ動くこころの葛藤。
一信徒である遠藤がこの二人と時代とその土地で生きた人々の中に自分と同じ存在を
見いだし葛藤の末に産んだのがこの沈黙という文学なのだと思います。

今も私は"沈黙"を読み返しています。
映画は忠実に原作を再現しています。
監督はこの作品をなんども何度も繰り返して読んだのでしょう。
その上での映画作品です。原作を熟読すればするほどこの映画作品の良さが
わかってくるような気がします。

2時間以上の大作です。
途中でトイレに行きたくなりました。
しかし、一コマでも見逃すまいとしっかりと画面と向き合いました。

最初に書きました。映画を映画館で観たのは何年ぶりだったのでしょう。
記憶にあるのは第一子が5歳の頃に映画館で「ちびまる子ちゃん」を一緒にみた記憶があります。
その前後に「男はつらいよ」の末期の作品を古町の松竹で観たのが最後かもしれません。

映画館ならではの迫力のある画面に驚きながら久々の映画鑑賞に大満足の越後OYAJIです。

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Posted by 越後OYAJI at 01:23Comments(2)