2024年04月15日

OJIJIの旅-22


OJIJIの旅-22(最終日)
2023年12月25日(月)

OJIJIの旅の最終日です。
埼玉県内から群馬県内そして新潟県に戻ってきました。

12月25日クリスマスです。

日の出を埼玉県内で迎えました。


早朝の埼玉県内。畑には「霜」が降っていました。
気温はマイナス3℃か4℃です。
震えるほど寒かったです。


12月25日。真冬です。新潟なら平野や山に雪です。
関東の埼玉県で雪は想像すらできませんでした。


いつもは東京新潟間を車で走る場合は国道17号だけを走ります。または高速道路。

国道17号線から国道140線に方向をとり、
埼玉県秩父市の方に行ってみました。
この方面は行ったことのないところです。

途中で立派なお寺に出会いました。
山門に彫られている彫刻に魅せられました。


立派な仏様の青銅像が安置されていました。思わず「合掌」(笑)

秩父市内で初めて使った全国チェーンのレストランで美味しい料理とコーヒーで一息つきました。
秩父からも富士山が見えるはずでした。
でも越後ojijiが走り回っていたところからは富士山は見えませんでした。

国道17号線で群馬県まで来ました。
いつも利用している群馬県渋川市の「永井食堂」で美味しいもつ煮を食べました。
この定食を食べると「ほッ」とします(笑) 
新潟に近づき、戻ってきたんだなぁと実感しました。


利根川の上流です。
以前から利根川の上流を色々な場所から撮影したいと思っていました。
しかし、中々そのチャンスがありませんでした。
今回は時間に余裕のある旅です。
ここが利根川上流地域だろうと思うところを経巡ってみました。
いつもことですが調べてきていないので写真に収めることができたのは
数枚の写真でした。今度は調べてから写真を撮りにこようと思ったojijiでした。(笑)


利根川の上流。


(左)三国峠まできました。群馬県と新潟県を結ぶ峠です。昔は難所と言われた所です。
(右)三国峠は55のカーブがあります。ここ数年工事をしていて随分と整備されました。


(左)三国トンネル群馬県側です(群馬県みなかみ町)
(右)三国トンネル新潟県側です。雪の量が随分と違います。


「国境のトンネルを過ぎるとそこは雪国だった」
有名な川端康成の小説「雪国」の冒頭。
暮れの25日。クリスマスの新潟県は「雪」が積もっていました。
新潟県湯沢町。道路標識をみると安心しました。
そして随分長く新潟を留守にしていたなぁ~・・・感慨深いものがありました。


新潟県側は「雪」でした。



長い長い旅を続けてきました。自宅に着きました。
2023年12月4日に新潟を出発してから21日間で「6354.3㎞」走りました。
無事自宅まで戻れたことを感謝しました。愛車君もくたびれたことでしょう(笑)



旅の途中では危険なことも何度かありましたが、無事に戻れました。
出発時に一番心配だったのは「古古車(中古車ではなく「古古車」ですWWW)」が
途中で故障することでした。事故に遭うというよりもそれが心配でした。
勿論、出かける前に整備点検してもらった上での車旅行でした。
それでも限界近くまで走っているこの車両がいつ壊れても不思議ではありません。
それが旅の最後まで持ちこたえ、安全に帰ったこれたことは"奇跡"かもしれません。

長い旅でした。
OJIJIが各所を巡って色々な場面に遭遇して思ったことは・・・
「平和な日本」を維持し続けることが最も大切なんだ。ということでした。
OJIJIが一人でそれも軽自動車で6000㌔以上も20日間以上も安全な状況で
旅行ができたのは日本国が「平和」だからです。治安が確保されていて、
ルールさえ守れば安全に車旅行ができる。
これは「平和の賜物」だと信じます。
そして広島・長崎・水俣・鹿屋・御殿場。平和とは何ぞや? 考えさせられました。考えました。
先人が命がけで今に残してくれた「平和」
それは戦争ばかりではない、公害問題や差別や偏見。
およそ普通の生活が担保されない状況。平和とは真逆の歴史。
そんなものを学びながら、いつも「平和」でありたい。
「平和」を維持しよう。「平和」を子や孫や曾孫・玄孫の代までも・・永久に、、、
日本が平和であり続けられるように考え祈っていました。

2023年12月4日(月)に新潟を出発して2023年12月25日(月)に戻った
越後ojijiの大旅行記録。家に戻ったら体調を崩し翌1月の半ば位まで
体調不良に悩まされましたが、無事に回復。一月に入ってからこの旅行記を書きだし
本日2024年4月15日(月)に書き終えることができました。
約4か月に渡って拙い記録文を読んで下さった方々に感謝とお礼を申し上げます。

旅の総括はしなければなりません。
そんなことを思いながら筆を置こうと思います(笑)

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2024年04月14日

OJIJIの旅-21


OJIJIの旅-21

2023年12月24日(日)
クリスマスイブです。

2023年12月4日に新潟市を出発して20日目です。
長い旅を続けました。東京に着いて何だか「ほっ」としました。face02face02face02
昨夜はいつも利用しているホテルで心身ともにリフレッシュできました。

東京はいつも来ているところなので敢えて「OJIJIの旅」などと記す必要はないのですが・・・
それでも越後ojijiにとっての大旅行の一環です。
記録しておかなければ・・・(^o^)

暮れでせわしい東京の様子を写真に収めました。

この日の夜には東京を出発して新潟を目指さなければなりません。
12月24日で一番賑わっているところに行こうと思い。上野・アメ横などを歩きました。
昼過ぎに上野に着いて大好きな東京めしをいただき、大満足で歩きました(笑)

クリスマスイブ(真冬)の上野公園です。

西郷隆盛像。


不忍池です。一面の「蓮(ハス)」の枯れた様子です。


サンタクロース姿のパンダさん。


上野公園では「大道芸人」さんたちがよくパフォーマンスを披露しています。
この日も数人(数組)の大道芸人がいました。
この方はルービックキューブを用いての奇術を披露していました。


この方は以前にも見たことのある方でした。
白色の大道芸人さん。


暮れでさらにクリスマスイブです。
暮れ関係の買い物とクリスマス関係の買い物で大賑わいの「アメ横」です。
日本人ばかりではなく信じられないほどの外国人観光客があふれていました。


(左)アメ横と言えば「カニ」や「マグロ」たくさん販売されていました。
(右)以前は見たことの無かった鶏やアヒルの中国風料理です。


(左)アメ横では外国人の方がお店を出しているのが多くなっています。
(右)昼過ぎでしたが、屋台風の食堂は大賑わいでした。


東京の街中はイルミネーションであふれていました。


夕飯は東京ラーメンでした。
その後東京都を後にして埼玉県まで進みました。

翌日はいよいよ最終日です。
埼玉県内・群馬県内そして新潟に着きます\(^o^)/

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2024年04月09日

OJIJIの旅-20


OJIJIの旅-20

2023年12月23日(土)

伊豆半島の旅です。

前日に静岡県側から見た富士山に感動して、
さらに山梨県側である「山中湖」からの富士山の威容を堪能した越後ojijiです。

山中湖から伊豆半島の方に向かったのは夕暮れでした。
その所々でも富士山の撮影をしました。

国道246号線を走って国道1号線と交わります。
伊豆半島を一周するつもりだったので沼津市まで下り国道414号を選びました。
しかし、国道を選んで走っていると海岸沿いから内陸に入ってしまいました。
国道136号線からまた国道414号と複雑に国道をつないで走りました。
国道1号線から静岡県下田市までの国道は「下田街道」です。

伊豆半島に来た目的の一つである「浄蓮の滝」まで来ました。


この日も早朝からの行動です。
伊豆半島に陽が昇る頃です。
2023年12月23日(土)午前6時47分


新潟市からここまで走った距離です。
そして温暖な伊豆半島の真冬の早朝です。
外気温は-2℃でした。
寒かったです。OJIJIは震えあがりました(笑)


「浄蓮の滝」です。
越後ojijiはこの「浄蓮の滝」を見たのは二度目です。
以前ここに来たのは10年以上前です。
駐車場から「滝」までは急な階段になっています。
注意しながらゆっくりと滝に近づきました。
以前来た時は平気で足取りも軽く「滝」まで来た記憶があります。
長い時をへて年をとったのですね(笑)


滝つぼへと勢いよく落ちていきます。
落ちる水の速さにカメラが追い付いていません。
実眼ではきれいな線を描いて落ちていました。


清流です。
この清流を生かして伊豆半島では「山葵(わさび)」の栽培がさかんです。
山葵は水のきれいなところでしか育たないからです。


真冬ですので水量も多く、美しい「浄蓮の滝」です。


川端康成の小説「伊豆の踊子」の舞台になったところです。
浄蓮の滝まで来るまでとさらに下田市に向かう時の
越後ojijiの頭の中では石川さゆりの「天城越え」がヘビロテしていました(笑)



ここでトラブルが発生しました。
なんと今まで使っていたカメラが突然こわれてしまったのです。
液晶画面が壊れしまい、使えなくなったのです。
幸いカメラは2台持って行っていました。もう一台のカメラで撮影を続けました。
カメラの画像は旅の記録です。
ノートにも少し記録を残しましたがやはりカメラでの画像が
分かりやすいのです。それ故に一瞬「どうしよう」と戸惑いました。(笑)。

伊豆半島を縦断して下田市まで来ました。


下田港に「黒船」がありました。
ペリー来航の地「下田」です。ちょっとだけ歴史に耽りました。(笑)。


伊豆半島の「相模灘」沿いです。


「相模灘」沿いです。


日中はとても暖かかったです。
やはり伊豆ですね。温暖という言葉ふさわしいところだと実感しました。
見慣れない花が咲いていました。


早咲きで有名な「河津桜」の町である「河津町」などを経て
快晴の伊豆半島を楽しみながらの車の旅でした。


相模灘沿いに「伊東」「熱海」「小田原」と進み平塚市まで来ました。
平塚市の「相模湾」から富士山を撮影しました。
この日は快晴だったのですが、この時間には富士山は霞んでいました。
カメラが代わって思い通りには撮影できませんでした。


国道135号で「平塚」「茅ヶ崎」「藤沢」と走って「鎌倉市」まで途中で
「江の島」が見えたり「江ノ電」に遭遇したり。お決まりの伊豆観光でした。
鎌倉市の「鶴岡八幡宮」の脇を通って横浜市を目指しました。
この通りは何度も通ったことがある慣れた道でしたが・・・
暮れの土曜日の夕方です。とてつもない渋滞に巻き込まれました(笑)

それでも横浜を過ぎ国道1号に合流して川崎を過ぎて東京都内に入りました。
いつも車を停めている駐車場に着いたのは午後8時過ぎでした。
定宿のあるところまでは「山手線」で移動してゆっくりと寝ました。

長い長い旅を続けています。
明日は暮れで賑わう都内の様子です。
つづく。

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2024年04月08日

OJIJIの旅-19②


OJIJIの旅-19②

2023年12月22日(金)②

静岡県御殿場市に来ました。
今回御殿場市に来たのはこの病院を訪ねる為でした。
カトリック「神山復生病院」です。
「神山復生病院」はカトリック女子修道会が運営する「ハンセン病の病院」です。


まず2023年12月22日(金)の午前11時20分頃に「御殿場駅」に着きました。
御殿場駅は「富士山観光」の拠点になる駅です。


駅の脇に「SL機関車」が保存されています。


御殿場市から見た「富士山」です。










「神山複生病院」です。
読者の皆さん。「ハンセン病」を御存じです?
「ハンセン病=ライ病」を御存じですか?
皮膚病でこの病気にかかると「不治の病」と恐れられた病気です。
聖書にでてくる位、古代から認識されている病気でした。
現在は特効薬ができて完治する病です。
しかし、つい最近までこのハンセン病は「偏見と差別」の対象でした。
皮膚が爛れて落ちていく、見た目にも恐ろしい病気だったのでしょう。
「不治の病」と恐れられた病気です。国は患者の「隔離」を政策として進めました。
その隔離されて治療に当たった病院のひとつががこの「複生病院」でした。
「御殿場のライ病院」として有名だった病院です。

私はこの病院を訪問したのは二度目です。
この「複生病院」は越後ojijiの人生に大きな影響を与えてくれた
カトリック作家の小説の舞台になったところだからです。
小説ですから「ハンセン病」という病気にしても治療に当たる「ライ病院」にしても
また「ライ患者」にしても、作者の心の中の情景が描かれています。
それでも何か不思議な感覚が越後ojijiにはあるのです。
作者が伝えようとした「意図」がストレートに伝わってきたのです。
まるで「雷に打たれたかのような感動」を与えられました。
そして繰り返し繰り返しその作品を読み返しました。
この小説に没頭してしまった越後ojijiはどうしても小説の舞台になった所を見たい。
そんな思いで10年以上前に一度この病院をを訪ねました。
その時は親切な修道女さんに案内をお願いして完治しても病院のホスピスで生活している
元患者さん達とも交流を持ちました。前回は「また来ますから」と告げて病院を後にしました。
今回もここに寄ろうとは思っていたのですが、予定がハッキリしないので突然の訪問になりました。
病院の内部にお邪魔して事務の方と少しお話をして病院は後にしました。


病院の内部です。丁度クリスマスの時期だったのでクリスマスツリーが飾られていました。


「神山複生病院」の近くに共同墓地があります。
ここに大勢のハンセン病で亡くなった方々のお墓があります。
この方のお墓参りが目的でした。
「井深八重」さん。
私が「雷に打たれてような」感動を覚えた小説の主人公のモデルになった方です。
ご自身もライ病と診断され、それがその後誤診とわかるのですが、
そのライ病院で治療隔離され世間から誤解と偏見と差別されている患者さん達と
共に生きる生き方をした心の強い女性でした。
「井深」という珍しい苗字です。ソニーの創業者の一人である「井深大」の親戚にあたる女性です。


共同墓地ですここで亡くなった多くの患者さんや治療や看護にあたった神父様や
修道女様のお名前が刻まれています。



このお墓からも富士山を拝むことができます(^o^)


「ハンセン病」と「ライ病院」
今回の越後ojijiの大旅行には何の関係も無いだろう・・・・
そう思われる方がいても当然だと思います。
しかし、不思議なのです。導かれるようにここに来たのです。
先に書いたように大きな旅です、そして富士山の写真を撮りたい。
その為に静岡県内を車で走って御殿場市まで行こう。
晴天の静岡県内でした。そして御殿場市でみた富士山の美しさ、
自然に神山複生病院に向かっていました。

ライ病は恐ろしい病気だと思われていました。
しかし感染力は弱く、特効薬ができてからは完治する病気でした。
それでもつい最近まで「偏見と差別」は無くなりませんでした。
私が尊敬してやまないお医者さまがいます。故人です。
その方は若いころに草津にある「ライ病院」で「ハンセン病患者」の治療に当たりました。
多くは教えてもらわなかったのですが「偏見と差別」さらに「病」と戦ったという話は聞きました。
そのお医者様の奥様も「不治の病」と恐れられた病気に理解を示され
生涯夫である先生と共に患者さんのために戦った方です。尊敬しています。・・・・

OJIJIの旅-19①②で富士山を楽しみました。
山梨県を後にして静岡県の伊豆半島に向かいました。
次は伊豆半島での記録です。
つづく。

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2024年04月05日

OJIJIの旅-19①


OJIJIの旅-19①
2023年12月22日(金)

越後ojijiの大旅行もいよいよ佳境です(笑)

大好きな富士山です。

2023年10月に「河口湖」から富士山をしっかりと見ました。
それまでは新幹線の窓からとか、曇りではっきりしない富士山とか
季節が悪くはっきりと見えない富士山ばかりでした。
しかし10月に見た河口湖からの富士山は・・・・
「わぁぁぁぁぁ!!!!! 富士山だ」「本物の富士山だ」と感動したものでした。

今度は静岡県側からの富士山を見たい。
今回大旅行に出た動機の一つでもありました。
静岡県側からの富士山~山中湖までの富士山の記録です。

また「御殿場市」から見えた富士山は次のブログに載せます。

静岡県側から見た富士山です。



この日は静岡県掛川市から始まりました。
掛川市の日の出です。


日の出の頃の富士山。空気が冷たく、清明だったのでくっきりとした富士山でした。


美しい富士山です。


国道一号線(東海道)を掛川市~沼津市まで行き
その後国道246号線で裾野市~御殿場市を目指し、所々で富士山を撮影しました。


美しい富士山です。


美しい富士山です。


美しい富士山です。


御殿場市を過ぎて国道138号線で山梨県方面を目指しました。
途中でも富士山の美しい姿を撮影しまくりました。


中山湖まで着きました。
中山湖から見た富士山です。


中山湖は山梨県内です。


中山湖に着いたのが午後3時半過ぎでした。
真冬の湖です。北風が吹いてとても寒かったです(笑)




湖は波が立ち、富士山は沈みゆく陽に照らされ始めています。寒かった(笑)


富士山って何で?こんなに人々を魅了するのでしょう?
今回の旅行で富士山の写真だけでも200枚位撮影しました。

最高の晴天で最高の富士山を満喫した一日でした\(^o^)/

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2024年03月26日

OJIJIの旅-18


OJIJIの旅-18
2023年12月21日(木)

名古屋。
名古屋市まで来ました。
名古屋市は過去に何度か訪れています。
親戚がいたり、仕事があったりしたからです。

今日は「名古屋城」の見物と「名古屋飯」を食べまくるのが目的です。

威容を誇る国宝「名古屋城」です。


この日も「日の出」から活動しました。


名古屋市の郊外です。真冬の朝。
田んぼは「霜」で覆われていました。早朝は寒かったです。


名古屋城を目指して国道を走っていました。
突然、「桶狭間の古戦場」という案内標識が出てきました。
歴史の教科書で習った名前です。どんなところかと見学することにしました。


この古戦場は現在、公園になっていました。
織田信長の時代の謂わば遺跡です。色々な石碑にその歴史が残っていました。


『名古屋城』に着きました。
名古屋城を見学するのは二度目です。
いつもの通りに地図と標識を頼りに目的地を目指しました。
ところが、ところがです(笑)
またまた道に迷ってしまっているのです(笑)
「環状線」というところを走っていました。なかなか名古屋城まで着きません。
多分、時間的には大きなロスをしたのだと思います。
どうにか目的地に着きました。(笑)。


名古屋城






しろの上にある「金のシャチホコ」がとても印象的です。


名古屋城のシンボルである「金のシャチホコ」のレプリカです。


名古屋飯として今回必ずたべようと思っていたのが「寿がきやラーメン」です。
名古屋の人のソウルフードといっても良いのだそうです。


スガキヤラーメンは安いです。


「名古屋城」を見ることと「名古屋飯」を食べまくることが目的の名古屋の地。
しかし、今回は「名古屋飯」を食べることができませんでした。
「みそカツ」「味噌煮込みうどん」「海老ふらりゃー」「土手煮」「手羽先」「あんかけスパ」「ひつまぶし」
あげたらきりがありません。そして名古屋の朝名物「モーニングサービス」・・・等々
どれにも出会えませんでした。がっかり。
しかし、名古屋までなら今後も行く機会があると思っています。
大阪以西はなかなかチャンスは無いとおもっていますが、
名古屋まではまた機会を作って行ってみたいと思っています(笑)

名古屋から静岡県を目指して旅を続けます。

明日は静岡県側から見た「富士山」の雄姿です。(笑)。
つづく。

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2024年03月24日

OJIJIの旅-17


OJIJIの旅-17
2023年12月20日(水)

OJIJIの旅も16日目になっています。
昨日は神戸までの記憶があるのですが・・・・
その後大阪市も過ぎて・・・・
記憶が曖昧です。(>_<)
随分と疲れていたので大阪府と奈良県の県境くらいで休みました。

当初の計画では九州・四国を見物した後で「紀伊半島」を巡るつもりでした。
「熊野古道」や「和歌山県の魅力」など見たいところがたくさんありました。
しかし、計画的に動いていたわけではないので、疲れがたまっていました。
紀伊半島をまわるのは無理だと判断しました。
しかし、ここまで来たので古都奈良は訪れたいと思い、奈良市まで来ました。

今日も日の出から行動しました。


奈良市に入りました。目的地は「東大寺」です。東大寺は奈良公園内にあります。
奈良のゆるキャラ「せんとくん」が迎えてくれました(^o^)


世界遺産「東大寺」です。


奈良公園内では「鹿」が自由に歩き回っています。鹿の写真はたくさん撮りました。


東大寺です。
東大寺正門「南大門」です。




ここが「大仏殿」です。


修学旅行の学生が大勢いました。OJIJIも高校の修学旅行でここに来ました。


金剛力士像。
有名な「運慶・快慶」のあ・うんの像です。
もう片方の像はうまく写真が取れていなくて片方の像だけです(笑)


奈良公園内には多くの歴史資料館などがあり、さらに「国立奈良博物館」などもあります。
多くの人と多くの鹿・・・写真を取りまくりました。
とても充実した時を過ごしました。


奈良市から京都府に戻りました。
京都府木津川市まで来ました。


途中で茶畑を見ました。
こんな見事な茶畑を見たのは人生で二度目です。


その後京都市まで戻りました。
そこでいつものOJIJIの思いつきで「伏見稲荷神社」を見てみたいと思いました。
地図で「伏見稲荷神社」を特定して標識をたよりに「伏見稲荷神社」を目指しました。
けど地図に従っているはずなのにどこまで行っても目的地に着けませんでした。
道路標識でも「伏見稲荷神社」示しています。人にも聞いたのですがよくわかりませんでした。
ということで結局は目的地に着けず。諦めました。
こんなことが何度あったでしょう。(笑)
残念でした(◍>ᴗ<◍)

車を進めていくとこんなお店がありました。
「豚丼」の店です。
「豚丼」と言えば北海道の帯広市の名物です。
こんな東海道沿いにそんな店があるなんて・・と思いながら入店。
豚肉は「疲労回復」に大切なたべものです。
そんなことで美味しくいただきました。\(^o^)/


国道1号線(東海道)で名古屋方面を目指しました。
明日は名古屋です。
つづく。

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2024年03月22日

OJIJIの旅-16

OJIJIの旅-16

2023年12月19日(火)

四国で楽しく美味しい時間を過ごしました。

四国を出て関西に向かいます。

まず四国で食べまくったうどんのお店です。
早朝から営業しています。まだ日の出前です。


午前6時38分。12月の早朝です。まだ日の出前です。




画像のお店は食べさせてもらった一部です。他の多くのお店で食べました(^o^)
そして気さくな沢山のうどん店の御主人からお話を聞きました。


老舗のうどん店です。このお店でも色々なお話を聞きました。
長い間営業してきたそうですが後継者問題で悩んでいるそうです。
毎日、手打ちの自家製麺を売っているそうです。
技術の継承と言う点でも難しい問題です。


四国を後にします。
坂出市を目指しました。
途中のJR四国「土讃線」の踏切で「アンパンマン」の電車に出会いました。
"みんなが大好きアンパンマン" これを見てほっこりしました(^o^)


四国を出ます。坂出市まで来ました。
「瀬戸中央自動車道」の坂出インターです。
この時は雨が降り出していました。この道路を通るのは二度目です。
越後ojijiの今後の人生でもう二度と四国に来ることは無いだろう。
いや、再訪は不可能だろう(笑)と思いつつ四国を後にしました。



岡山県の児島インターです。
児島インターに着いた時も雨でした。
倉敷市を目指しました。倉敷市も歴史や文化で色々とある街です。
車を走らせていると何かに遭遇するだろう・・・といつもの感じで(笑)
しかし、雨で周りがよくわからず2時間ほど周辺を含めて走ったのですが
思うようなところに出会えませんでした。


国道2号線に合流してひたすら東進しました。
岡山県内から兵庫県内までひたすら安全に気をつけて車を走らせました。

途中で食べたラーメンです。
このラーメンも全国展開しているチェーン店です。
存在は知っていたのですが食べたことの無いラーメンだったので頂きました。
長い時間運転していたのでお腹はペコぺコ。とても美味しかったです(笑)


この日は長い時間運転していました。
神戸まで着きました。夜中になっていました。
久しぶりに「ダイエー」に出会いました。新潟から「ダイエー」が撤退したのは何時だったでしょう?
現在ダイエーはイオンのグループに経営統合され、名前だけが残されていて
実際はイオンです。ロゴも昔とは変わっていますね・・・
久しぶりの「ダイエー」だったので店を覗いて買い物をしました。


さて新潟から5000㎞走りました。
中古車どころか古古車です。新潟を出てからほぼ毎日休まずに走っています。
15日間で5000㎞は車には負担だったと思います。


随分と疲れていました。
でも好奇心おおせいのOJIJIです。
次はどんなところに出会えるのだろう。
二度とこんな大旅行はできないだろう。
そんな思いで次の日を楽しみにして休みました。

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2024年03月20日

OJIJIの旅-15③


OJIJIの旅-15③
2023年12月18日(月)


四国にきた目的は「うどん」を食べまくることでした。
四国と言えば「うどん」です。
うどんを食べさせるお店も多いですし、
うどん食が生活に根付いているのがよくわかりました。

昨今、家計支出における餃子の支出額を「宇都宮市」と「浜松市」が争ったり
ラーメンの家計支出額を「新潟市」と「山形市」が競ったり。
と食をとりまく話題が豊富です。それぞれが地域の大切な食文化です。
うどん食は四国の大切な食文化です。

さて以下が今回食べたうどんです。

普通の讃岐うどん。かけうどん。


ぶっかけうどん。


ちくわ天うどん。


釜玉うどん。


肉うどん。


冷やしうどん。


かけうどん。


かけうどん。


昆布天うどん。


釜玉うどん。


おろしうどん+おでん(こんにゃく)


釜揚げうどん。


かけうどん+おでん(練りもの)


全国チェーンの「はなまるうどん」のうどんです(笑)


あるお店のメニューです。格安であることがわかります。


うどん食が生活に根付いています。朝食にうどんというのが定着しているようです。
お店は朝6時頃から営業しているところが多いです。
そして午後3時頃までの営業というところが多いそうです。
夜も営業するところは11時開店だそうです。

一杯100円~というところもあったりします。食事であったりおやつであったり・・・
小腹がすいたら「うどん」というのが当たり前になっているのが生活と共にある
うどん食文化です。

どのうどんも美味しかった\(^o^)/
皆さんの中で「讃岐うどん」は「コシがある」というご意見の方が多いと思います。
それは「讃岐うどん」ブームを起こした冷凍うどんに起源があるそうです。
過去のあの冷凍うどんは確かに口当たりがツルツルしていて
嚙み心地・歯ごたえはしっかりとしていたものがありました。
しかし、地元の方に聞いてみると、それは一般的ではない。ということでした。
四国の普通の飲食店が提供するうどんは柔らかくてコシと言われるような
歯ごたえは無いのだ。ということでした。あの冷凍うどんは讃岐うどんを
謂わば「デフォルメ」したもので「販売戦略」なのではないかということです。
地元の人に言わせれば、硬いうどんだそうです(笑)

やはり本物はその場に行って食べなければ、わからないです。

さらに都市伝説なのだと思いますが・・・
四国には全国チェーンの「丸亀製麵」は無い。
と思っている方も多いと思います。
香川県内にも「丸亀製麺」はありました。看板を見ました(笑)(笑)(笑)

旅は続いています。

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2024年03月16日

OJIJIの旅-15②


OJIJIの旅-15②
2023年12月18日(月)

愛媛県今治市から香川県丸亀市そして高松市を過ぎて徳島県に入り、
途中、徳島県内の風光明媚なところを見物しつつ、海岸沿いを走り
「高知県、室戸岬」まで来ました。
「四国」はうどんを食べまくるというのが「主目的」でありますが
この「室戸岬」も来たい所でした。そして「坂本龍馬」との再会です。
太平洋に面して、異国へとつながっているところはOJIJIには異文化の地です。(笑)
そんなことで「室戸岬」まで来ました。

室戸岬です。




室戸岬には太平洋を見渡すように「中岡慎太郎」の銅像が立っています。
中岡慎太郎は幕末の志士として有名ですが
越後ojijiはあまり興味がありませんでした(◍>ᴗ<◍)失礼!!!


室戸岬からみた風景です。太平洋です。


広々と大きく見える太平洋です。
天気がよく海は凪でした。


さて室戸岬を後にして「桂浜」を目指しました。

国道55号線で高知市に向かいます。
途中の「安芸市」は三菱の創業者である「岩崎彌太郎」の生誕の地です。
国道沿いに岩崎を顕彰し街をあげて岩崎の功労を称えるものがありました。
「中岡慎太郎」「岩崎彌太郎」そして「坂本龍馬」
流石に「土佐=高知」です。近代日本を作り出すために活躍した人々の
名前がいたるところに出てきます。\(^o^)/

16時50分。名勝「桂浜」に到着しました。

17時「坂本龍馬」像との再会です(^o^) 
龍馬像とは二度目の出会いです。


坂本龍馬 日本の未来を見ているように思えます。


坂本龍馬 しっかりと太平洋を見ています。


龍馬像を背にして桂浜に降りていきます。


桂浜です。


冬の夕方にここに着いたので光の状態があまりよくなく、
写真がきれいに撮れませんでした。ちょっと残念。

12月18日真冬の高知県桂浜です。
17時26分太平洋に陽が落ちていきました。
寒かった。


桂浜に着いた時は夕方だったし、寒かった。
越後ojijiはOJIJIなので「桂浜」から駐車場に戻るのに方向が分からなくなり(認知症の始まりかな?)
グルグルと徘徊していました(笑)
周りはドンドン暗くなっていきます。係の人に何度か聞きながら元の位置に戻りました(笑)(笑)
駐車場に戻った時は真っ暗でした。
「桂浜」から「高知市内」を目指しました。
高知市内に入りましたが日没後だったので、有名な「はりまや橋」も通ったのですが
写真に撮ることはできませんでした。過去に高知市に来た時も「はりまや橋」を
写真に撮ることができなかったので今回は是非と思っていたのですが残念でした。
高知市を出て、国道32号線で坂出市に向かいました。

今回の四国は四国全体を半周するかたちでした。
四国も一周したかったのですが、だいぶ疲れていました。
「足摺岬」にも行きたかったのですが・・
しかし、四国に来た主目的である「うどんを食べまくる」
次は四国での「うどん」の話です(笑)

つづく。

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2024年03月15日

OJIJIの旅-15①


OJIJIの旅-15①
2023年12月18日(月)

愛媛県今治市から国道196号線を走り国道11号線に合流して
香川県丸亀市に着きました。
前記事に書いたように松山市の方では無く、香川県丸亀市を目指したのは
「うどん」にこだわったからです。「讃岐うどん」といえば香川県。

今日の旅は香川県丸亀市から始まります。

日の出です。
四国で始まった朝も晴れでした(^o^)


ここは香川県丸亀市です。
丸亀市のシンボルである「丸亀城」です。


丸亀城は丸亀市役所に隣接する小高い丘の上にあります。
そこから瀬戸内海を臨みます。
丸亀市の市街地と丸亀港。瀬戸内海です。


「讃岐富士(さぬきふじ)」です。国道を走っているととても目立ちます。
越後ojijiはこの山をみると「四国に来たなぁ」と思うのです。三度目の出会いです(笑)


丸亀市から海岸沿いに高松市に向かっています。瀬戸内海です。


途中で出会ったお地蔵様。
四国も地蔵様が沢山ありました。
四国巡礼の地です。「お地蔵様」は「極楽へと導いてくれる」ありがたい仏様です。


国道11号を走っていくとJR四国の高徳線「引田駅」に着きました。ここは「東かがわ市」です。
現在NHKの朝ドラ「ブギウギ」の作品モデルになった「笠置シズ子」の生まれたところです。
最近、そのドラマにもこの「引田」という地名が出てきました。
何度も繰り返しますが・・(笑) 事前に調べてきてここにたどり着いたのでありません。
次の目的地に行くまでにたまたま通りかかっただけです。
しかし、現在この朝ドラ「ブギウギ」に「ドはまり」している越後ojijiにはとても嬉しい出会いでした。

デフォルメした「笠置シズ子」は愉快な人柄がそのまま描かれているようでした(^o^)


今後の観光スポットや町おこしとして大切な素材です。


駅を観光の足掛かりにしてそこから面的に広げようとする意図がよくわかります。
小さな駅です。駅前には「なにも無い」ところでした。。。


香川県から「徳島県」に入りました。
「徳島県」から「高知県」に向かってひたすら海岸沿いを走りました。


紀伊水道です。対岸は紀伊半島です。


四国の海岸。




香川県から徳島県、そして高知県へと海岸沿いを走っていると
いたるところでこの「施設」に出会いました。
これは「津波避難タワー」です。四国や太平洋側で大地震が起きれば
必ずと言っていいほど「大津波」が想定されます。とにかく、逃げる場所として
「津波避難タワー」が各所にできていました。形式は多少違っていても
津波がきたら非難するところとして大切な施設です。
今回の「能登半島地震」でも津波が大きな被害をもたらしました。
津波が来ると「逃げること」は不可能だと言われます。とにかく、高いところに登ることです。
何か所もの「津波避難タワー」を見ていて、一番良いのは「大地震」が起きないこと。
そして津波などない事。この「津波避難タワー」が「無用の長物」となること。
そんなことを考えながらそして祈りながら見ていました。


四国の海岸沿いも奇岩が散在していました。
全国どこにでもある「夫婦岩」
四国で出会った「夫婦岩」です。


ひたすら海岸沿いを車で走らせています。
次は「室戸岬」と「高知県の桂浜=坂本龍馬」との出会い旅です。
つづく。

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2024年03月13日

OJIJIの旅-14


OJIJIの旅-14
2023年12月17日(日)

九州一周の旅が終わりました。
九州に入った時と同じ「関門トンネル」まで戻ってきました。

関門トンネルの入口です。


トンネルの入口です。
トンネルを通った先は「山口県下関市」です。
下関と言えば「ふぐ」が名物です。この入口は「ふぐ」をイメージしています。
おもしろいですね(^o^)


トンネルの内部を車内から撮影したものです。
運転中に周りに充分注意して撮影したつもりですが、今思うと「危険」ですね(>_<)
カメラが映っていますが、このカメラで動画撮影していました。


さて関門トンネルを抜けて本州に戻りました。
山口県から国道2号線で「東進」しました。来た時と同じ道を東へと向かったのです。
関門トンネルを出たのが午前8時頃です。
そこからひたすら(ほぼ休憩も無しに・・・[(笑)])車を走らせました。
この日も天気が良く快適に車を走らせました。

12時過ぎに岩国市に着きました。
九州に向かう時は夜中でした。その時は「ライトアップされた錦帯橋」を見物しました。
今回はお昼に錦帯橋に着きました。日曜日のお昼です。好天です。多くの観光客がいました。
錦帯橋を撮影・・・・




ライトアップされた時とは違う景色を見た感じでした。アーチ型の橋梁は美しいです。


錦帯橋を見物して広島市に戻り「平和公園」の脇を通ったりして
国道2号線沿いにひたすら走りました。
来た時と同じ景色を反対に見ているのですが、なんとなく見慣れた景色のように錯覚していました。
この後に「四国」に渡るのですが、こんな瀬戸内海の景色を眺めながら「尾道市」を目指しました。


広島尾道市も色々と歴史遺産などがあったり、映画のロケ地になっていたり
尾道ラーメンが有名だったり。
この町も見物したい町でした。地図で尾道市に着いたとわかったのですが、事前に
調べていたわけではないので一体どこが観光スポットなのがわかりませんでした。
1時間ほど街中と周辺をウロウロしたのてすが結局わかりませんでした。
そして雨が降ってきました。さっきまで晴れていたのに・・・・
尾道ラーメンも食べられませんでした(涙)()

本州四国連絡橋を使って四国にわたります。
ここは尾道・今治ルートに入ろうとするところです。
ここまで新潟から4000㎞走りました。雨が降ってきて外気温は3℃です。


本州四国連絡橋(ここは通称「しまなみ海道」と言います)
尾道市の「西瀬戸尾道インター」から1時間以上かかったように思います。
愛媛県今治市に着きました。「今治インター」です。
初めて走る道路です。そして雨も降ってましたし夕刻になり写真を撮る余裕がありませんでした。
記憶だけがあります。瀬戸内海の色々な島をつないでいる高速道です。
途中の島の名前などで聞いたことがある。というところもありました。
この時も越後ojijiの頭の中では「瀬戸の花嫁」がヘビロテしていました。(笑)。


四国に着きました。越後ojijiは四国に来るのはこれで三度目です。
今治市に着きました。本州を背にして右に行けば四国の最大都市「松山市」です。
道後温泉があったり、夏目漱石の小説「坊ちゃん」にゆかりの色々な観光スポットが
あります。以前二度松山市は訪れているので今回は香川県のほうを目指しました。

今回越後ojijiが四国に来た目的は「讃岐うどん」を中心として「四国のうどん」を
食べまくりたい。。。という年寄りらしからぬ目的がありました。
四国全体で生活に沁み込んだ「うどん食文化」に触れることでした。
そしてまさに「年寄りらしからぬ」程のうどんを食べました(笑)。それは別に記録します。

香川県丸亀市を目指しました。
四国に入って最初に食べた「うどん」です。
この一杯はお腹がすいていたというのも理由の一つですが
そんなことは関係なく「おいしかった」(笑)(笑)(笑)


明日は「香川県」~「徳島県」~「高知県」の旅です。

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2024年03月11日

OJIJIの旅-13③


OJIJIの旅-13③
2023年12月16日(土)

作家「遠藤周作」をご存じだろうか?
越後ojijiの人生に大きな影響を与えてくれたカトリック作家です。
遠藤周作の作品の中に日本のキリシタン歴史小説があります。
遠藤周作は信長・秀吉の時代からキリスト教禁教とキリスト教弾圧をした
三代将軍「家光」の時代を中心に南蛮渡来の「基督教」を題材にした
各種歴史小説を書いています。
大好きな作家ですので一応全部を読みました。
偉そうに「読みました」といっても「読み流しました」というのが正しいでしょうか(笑)
その歴史小説のなかでも「沈黙」という作品は内容的に考えさせられるものが多く
繰り返し何度か読みました。
小説「沈黙」の舞台になっているのが現在の長崎県や佐賀県です。
せっかく長崎県にまで来たのでその「沈黙」の「聖地巡礼」をと思ったのです。

長崎市の「平和祈念公園」「浦上天主堂」と見学してから国道251号から島原半島を目指しました。

キリシタンの歴史探訪ということですのでここでの記事は時間が前後します。
まず「カトリック雲仙教会」です。
雲仙教会に着いたときは雨でこの地域全体が霞んでいました。
駐車場から教会までは坂道で、傘をさしてそこまで行くのはOJIJIにとって大変なことでした。
残念ながらここで写真を撮影して車の中で"いのり"の時を持ちました。


読者の皆さんはこの碑文を読んでもなんでもないことでしょう。
この教会が建っている場所は歴史上もっとも悲惨なキリスト教弾圧が行われた場所なのです。
キリスト教信仰を持っているというだけで筆舌に尽くしがたい拷問がここで行われました。
その内容は遠藤周作の小説「沈黙」に描かれています。
どんな拷問にあっても信仰を絶対に捨てなかった「聖人」がいたという記録もあります。


雨にくもる「カトリック雲仙教会」


時間が前後します。
キリシタン墓碑です。
キリスト教徒ということがわからないように墓を「縦型」にしてごまかした
ということです。この頃は「旦那寺」制度ができてキリスト教信者じゃない
ことを証明するために墓までも仏教的にして信者であることを隠したのです。
しかしキリスト教信仰を持った人々は形だけは仏教徒を装い隠れて信仰を守りました。
隠れて信仰を守り続けた人々を「隠れキリシタン」などどいう言い方もします。


随分と古いお墓です。


さて長崎市を後にしてほとんど「島原半島」を一周しました。
その途中に「キリシタン」に関する色々なものがありました。
キリシタン墓碑やキリシタンの歴史を語る施設などがありました。
車で走っていると目には入るのですが(案内看板や案内標識)なかなか全てを
網羅して見学することはできませんでした。それほどこの島原半島には
たくさんのキリシタン歴史関係の遺物や遺跡があるということです。
例えば標識でキリシタン関係の場所というところがありました。
車を回してみると、なんとただの原っぱだった。ということも何度かありました(笑)

島原半島を海岸沿いに走っていて「有馬キリシタン遺産記念館」に着きました。
見学しました。
「有馬キリシタン遺産記念館」はキリシタンの歴史や長崎のキリシタンに関する
歴史が一目でわかるように展示されています。


キリシタン弾圧の歴史を物語る「レリーフ」です。
弾圧と迫害を受けた信者たちは命がけで信仰を守ったのです。


「踏み絵」です。「踏み絵」もキリシタン史を語る上で逃れることができないものです。


「島原の乱」です。
日本の(長崎での)キリスト教の歴史は弾圧と反発そして迫害の歴史です。
天草四郎とともに戦う=祈る・・・・


天正遣欧使節に関する展示。


有馬キリシタン遺産記念館の内部
ここはキリシタンの歴史を時間を追って正確に展示しています。
全部を見ながら考えながら時間を過ごすと多分2~3日かかると思います。
それだけ詳しく正しく歴史解説をしているのです。
「キリシタンの迫害・拷問」「天草四郎のこと」「天正遣欧使節」のことなどは
遠藤周作作品に沢山出てきます。その作品のことを思い出しながら見学しました。
また遠藤周作はこの時代の女性に視点をあてた作品も多く書いています。
「細川ガラシャ」などを主にした殉教小説などもあります。


色々な学びがあった「有馬キリシタン遺産記念館」を後にしました。
この後にもキリシタンの歴史に関する場所はありました。

島原半島を回っていて温泉が噴き出でいるところに出会いました。
温かい蒸気が噴き出ているだけなのですがこの光景をみると
「雲仙地獄」を連想しました。
雲仙地獄と言われるくらいにとんでもない迫害と拷問があったのです。




島原湾沿いです。
海岸沿いに走っていると新潟では目にしたことが無い景色に数々出会います。


島原半島を出て国道で福岡県を目指しました。
ここまでで九州での色々なものを見る目的はほぼ達しました。
九州を出て本州に戻り次は四国に行くことが目標です。
しかし、せっかくここまで来たのですこし遠回りになっても
長崎県・佐賀県内をもうちょっと走ってみたいと思いました。
けど結局は走ったというだけでした。真夜中だったからです。

(左)佐世保市を目指したのは自衛隊の基地があるからです。
佐世保基地は国内有数の大きな基地です。夜でも煌々と照明をつけて
とても不思議な感覚を与えてくれるところです。しかし、地図だけを頼りに
走ったので結局佐世保市の目的地には着けませんでした(笑)
(右)佐賀県有田町を通って福岡県に出ました。
有田町は勿論「有田焼」の産地です。
もし昼間だったら「有田焼」に関しても見学したかったです(笑)


長崎での楽しみが「長崎ちゃんぽん」を食べることでした。
長崎県内での食事はほとんど「チャンポン」でした。
色々食べたのですが特にお気に入りだったのをここに載せます。
野菜たっぷりの「長崎ちゃんぽん」です。


別のお店のチャンポン


長崎で色々なチャンポンを食べましたがこれが一番チャンポンのイメージに合っていました。
白濁したスープと野菜そして蒲鉾や肉などの具材。
越後ojijiがリンガーハットなどで食べるチャンポンのイメージとほぼ一致していました。(笑)。


<閑話休題>どうでも良い話ですが(笑)
越後ojijiが『九州』で初めて食べたチャンポンはなんと「リンガーハット」でした。
それも20年くらい前の話です。リンガーハットは全国チェーンなので
わざわざ本場の九州で食べなくても新潟でも東京でもどこででも食べられます。
記憶がハッキリしているのですが・・
その時はとてもお腹がすいていたのです。目に飛び込んできた看板にあった
「チャンポン」という文字だけでたべたところが全国チェーンのお店でした(笑)

さて今回の長崎でのチャンポンですが、気になることがありました。
それは過去に食べたチャンポンに絶対入っていた「イカゲソ」が無かったのです。
最近イカ漁が不漁です。それにつられてゲソの供給も減っています。
そんなのが理由なのだと思いました。ちょっと悲しい・・・(笑)

九州での目的は大体達成できました。
繰り返し記しますが何の目的も無しにここまで来たのです。
事前に九州での目的は本州最南端に行くこと、そして平和について考えること。
九州らしいものを食べることでした。
このブログを読んでくださるとそのことがわかってもらえると思っている越後ojijiです。

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2024年03月10日

OJIJIの旅-13②


OJIJIの旅-13②
2023年12月16日(土)

『浦上天主堂』

長崎平和公園を後にして「カトリック浦上教会=浦上天主堂」を訪ねました。
この教会も以前訪れたことがあります。が極短時間でした。
今回は雨でしたが少し時間を使ってこの教会に関する学びの時間を持ちました。

「浦上天主堂」です。「天主堂」というのは中国式の言い方で「教会」のことです。
日本のキリスト教の歴史では「西洋」からの伝道が一般的ですが
日本語でのキリスト教用語では「中国語」に由来する言葉が多いです。
例えば「福音」という言葉やこの「天主堂」と言う言葉です。まだまだたくさんあります(笑)


浦上天主堂は長崎平和公園から見えるところにあります。
平和公園から撮影。


平和公園から撮影。
平和公園から至近距離にある。ということはこの教会も爆心地にあった。ということです。


カトリック浦上教会の歴史概要を記す掲示。


教会の入口です。
写真撮影できるのはここまでです。
聖なる祈りの場です。
教会内部の写真・動画撮影は禁止です。

教会の内部には誰でも入ることができます。
キリスト教会ですからいつでもオープンです(^o^)
雨ふりの土曜日でした。聖堂内には関係者しか誰もいませんでした。
越後ojijiは聖堂内に入り、しばし「祈りの時」をもちました。、。、。。。。


教会の入口脇に大切な記録があります。


キリスト教に興味関心の無い方にとってはどうでもよい事と思います(笑)
しかし、日本の歴史にとって大切な記録がここにあるのです。
幕末から明治初頭に長い間禁じられていたキリスト教の信者がいた。発見された。
というとんでもない事実があったのです。。


越後ojijiはこの事実。
杉本ゆりという若い農婦が「マリア様はどこ?」と神父様に尋ねたのがきっかけで
長い間日本で封印されていたキリスト教信仰の信者が見つかったということです。
越後ojijiはこのことを大好きな作家である「遠藤周作」の著書の中で知りました。
それを証明したのがこの青銅版に刻まれていることです。
今回浦上天主堂を訪ねたのは、このことを再確認したかった。と言ってもよいくらいです。


それでもさらに続くキリスト教排除と禁教。弾圧。その歴史的事実です。


教会を別角度から撮影しました。


教会を別角度から撮影しました。


カトリック浦上教会の「信徒会館」です。ここは原爆資料館でもあります。
カトリック浦上教会信徒会館・原爆遺物展示室。


内部です。


原爆で首が吹っ飛んだキリスト像。


こんな絵も展示されていました。おぞましいです。
写真はたくさん撮影しました。
このブログに載せていいのか?と思うほどの悲惨なものもありました。


色々見学して、祈りの時を持ち教会を後にしました。



長崎に来た目的はキリスト教の歴史に触れたいという思いでした。
長崎市を後にしてキリスト教迫害の歴史をまざまざと感じることができる
雲仙地獄を目指しました。

途中で出会った畑です。国道の脇に広がっていました。
多分畑なのだろうと思います。色が赤茶色なので火山灰土かなんかかな?
今まで見たことの無い景色です。
ふしぎに思いながら撮影しました。この時も強い雨でした。




雲仙に向かう海岸沿いです。天草灘です。


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2024年03月08日

OJIJIの旅-13①


OJIJIの旅-13①
2023年12月16日(土)

『長崎平和公園』

前日佐賀県の「吉野ヶ里遺跡公園」を見学して、佐賀県から長崎県を目指しました。
道に迷わないように長崎まで1本道である国道34号線を走りました。
長崎県での目的は「長崎原爆記念公園」を訪ねること。
多くの方には興味がないと思いますが、日本の「キリシタン」の歴史に触れること。
そして長崎ちゃんぽんを食べることです(^o^)

佐賀県を出たのが夕方だったので早めに宿をとり休みました。
夜中に「長崎ちゃんぽん」を食べるのですがそれは後で書きます。

12月16日(土)
9時30分に長崎平和公園に着きました。
「長崎は(今日も)雨だった」
そうなんです。この日の長崎市は雨でした。
平和公園に着いたのですが傘をさしての見学でした。
ここは過去に一度だけ来たことがあります。
その時はほんの数十分ここに滞在しただけでした。
長崎にまで来たぞ。という思いだけでゆっくりと見学することはありませんでした。
今回は「もう二度と九州に来ることは無いだろう」という思いで且つ時間もあったので
ゆっくり見学するつもりでした。が・・雨で思い通りにはなりませんでした。


平和公園のシンボルである「平和祈念像」です。


この像の裏側は初めて見ました。たくましい青年の姿がとても印象的です。


作者の「北村西望」の言葉です。重い言葉です。この時代の人にしか語れない言葉です。


色々な角度から撮影してみました。


別角度からの撮影。


別角度からの撮影。


雨の平和公園ですが傘をさして「祈っている方」がいました。


原子爆弾の熱射で焼けただれた人々。水を求めて・・・・
長崎の原子爆弾は広島の原爆の9倍の威力があるものだったと言われています。
広島・長崎と日本は日本人は原爆というとんでもない兵器で人体実験をされたのです。
「語るもおぞましい」というのはこういうことだと思います。
広島でも長崎でも何の罪もない市井の人々が理不尽な死を遂げた。
私たちはひとえにこの事実を理解して愚かな戦争などと言う行為を・・・
戦争などと言う行為を二度としないのだ。
してはいけないのだと後世に伝える義務があると思います。


平和の象徴のように見える「水」。平和の泉。



長崎原爆の爆心地には刑務所がありました。
この平和公園がそれです。そのことを静かにかたっている案内板。


未だに名前すらわからない方々も原爆でやられました。
理不尽です。今更、過去には戻れません。
私たちにできることは「戦争を絶対にしない国=日本」を作ることです。
永遠に・・・そうです永遠にです。
そのためには「努力して努力してさらに努力して平和」を作り出すことです。
安易に武装しても武力を近代兵器にアップグレードしても平和にはなりません。
自衛の為と「うそぶいて」武力を増そうとする政治勢力がありますが
そういう人々は越後ojijiのような人間を「平和ボケ」していると罵るでしょう。
OJIJIは罵られても世間から排除されても自分の子孫に「平和」を残したいのです。


バスでも着いたのでしょうか?
越後ojijiが平和公園を後にする頃には大勢の方々か平和記念像を見学していました。
また祈っていました。。。。


平和公園に着くまでに見た長崎らしい景色です。

長崎カステラの専門店のようです。
長崎カステラ大好きです。(^o^)。


坂の町長崎。そんな光景です。


この平和公園からカトリック浦上教会が見えます。
平和公園を後にして「浦上天主堂」に向かいました。

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2024年03月04日

OJIJIの旅-12③


OJIJIの旅-12③
2023年12月15日(金)
吉野ヶ里遺跡見学の続きです。

吉野ヶ里遺跡展示室というのがあってそこも見学しました。
発掘された遺物など色々と資料が展示されています。


「弥生人」を再現しています。発掘された遺骨などから「こんな顔だっただろう」
と復元・再現したものです。最近の科学力はすごいなぁと感心しました。


展示資料館の内部です。


展示資料館の内部です。


弥生式土器の例です。小さな普段使いの土器から「甕棺」に至るまで各種展示されています。


当時の埋葬の様子が再現されています。


これは昨年ニュースになりました。
遺跡から新しく見つけられたそうです。


こんなのが出てきて歴史的科学的分析をしたら「新発見」だったそうです。
まだまだ新しい発見がある吉野ヶ里遺跡です。
越後ojijiはそれを目の当たりにできたのは幸いでした。




吉野ヶ里遺跡展示室を後にして
お墓の展示部分に行ってみました。
この地域は当時の権力者たちを葬った特別なところです。


王などの特別な人達を埋葬する場所に行きつくまでに一般庶民も
こんな風に葬られていたのだ。という発掘資料に出会えます。
甕棺です。甕棺土葬です。


北墳丘墓というところに来ました。
ここには歴代の特別な支配者が葬られていたようです。


建物のようになっていますが、遺跡を保存するために屋根や壁で覆って
大切な歴史的遺物を守っているのです。


弥生時代です。
この時代でも死者を葬るという思いが強かったというのがよくわかる資料です。
勿論「仏教」などが伝来されていない前です。
死者に対する思いというのは「宗教」ではないことがよく理解できます。
生きていた人が死んで別のところに行ってしまう。
この不思議なことに対して人間はいつの世でも同じ思いで「死」と向き合っています。
そんなことを考えさせられる資料です。


こんな風に「永遠の眠り」についたのですね。


墳丘墓の内部です。


歴代の権力者のお墓の様子が保存されています。


随分と長い時間「吉野ヶ里遺跡」に滞在しました。
夕方になりました。約5時間滞在していました(笑)
多くのことを学ばせてもらい「吉野ヶ里遺跡」を後にしました。





佐賀県から長崎県を目指しました。

つづく。

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2024年03月02日

OJIJIの旅-12②


OJIJIの旅-12②
2023年12月15日(金)

雄大な阿蘇山を見ることができずにちょっと寂しい思いをした越後ojijiです。
熊本県内の国道57号から国道325号そして国道3号線に出ました。
国道3号線でほぼ山の中と平地の繰り返しを進んで福岡県に入りました。
福岡県久留米市から国道34号で佐賀県に入りました。
国道34号線沿いの吉野ヶ里町に「吉野ヶ里遺跡公園」があります。
広大な敷地に弥生時代の遺跡が保存されています。
OJIJIはここを見学するのも旅の目的の一つにしていました。

吉野ヶ里遺跡です。
2024年12月15日(金) 13時10分に着きました。

遺跡ではマスコットキャラクターが迎えてくれました。


とにかく、広大な敷地に多数の歴史遺跡が保存されています。
弥生時代は今から2400年前から1700年前頃まで続いた時代です。
この遺跡は約1800年前頃の吉野ヶ里の様子を再現しています。
遺跡の様子を少しずつ紹介したいと思います。


吉野ヶ里遺跡のこんな写真を見たことがある人も多いと思います。


当時の様子を再現しています。


遺跡(ムラ)は全体的に「柵」で囲われています。防衛の為です。


「王の家」です。




内部展示されています。


当時の様子が再現されています。



ここは「王の妻」の家です。


「王」の家とほぼ同じ作りになっています(左)     「王の妻」が機織りをしています(右)


「大人(たいじん)」と言われる階級があったのだと思います。
「ムラ」や「クニ」を運営していく上での「役人」と思われます。
「大人(たいじん)の家」です。
この大人は「軍事や土木工事」を取り仕切っていた要人のようです。


王の家とほぼ同じ作りです(左)        内部が再現されています(右)


大人(たいじん)の妻の家です。
役職を持つ大人の妻も一軒家を持つだけ優遇されていたようです。
一般庶民は竪穴式住居で家族で雑魚寝だったのでしょうから・・ 


大人の妻が娘の髪をすいている様子が再現されています。
大人になると今でいう「セレブ」だったのでしよう。


弥生時代の住居を再現しています。これは「竪穴式住居」というのでしょうね。



別の「大人(たいじん)」の家です。外交をつかさどる大人の家です。


この「ムラ」または「クニ」以外の地から訪れた人と会談しています。


兵士の家です。


「ムラ長」との家です。ムラ(村)を統治する村長(むらおさ)の家です。


吉野ヶ里遺跡全体の様子


吉野ヶ里遺跡全体の様子


吉野ヶ里遺跡全体の様子


吉野ヶ里遺跡全体の様子


ここは謂わば「倉庫群」なのですが、この作りは「校倉造」を思わせる作り方です。


王の宮殿です。
特別なところです。特別な建物です。特別な作り方をしています。


王の宮殿です。
特別な処だということがよくわかる立派な建物です。


王の宮殿の内部の再現。


この時代の「政(まつりごと)」の最大の役割は
「農」をどうつかさどるかということにかかっていました。
つまり、何時?種まきをして、何時?刈り入れをすればよいのか・・・
それは「呪術」によって与えられていました。
「呪術」を行うの特別な女性がしていたと思われます。
その女性が「王」だったことも考えられます。
吉野ヶ里が「卑弥呼のクニ」と考えられている根拠の一つにもなっています。


種まきと刈り入れの日を知っている特別な人を「日知り」と言いました。
この「日知りの人」を「ひじり」と言い「聖」という言葉になったと言われています。


吉野ヶ里歴史公園内にある、「ヤマモモの巨木」です。
「ヤマモモ」は新潟では育たないとされています。
しかし、庭木として細々と栽培されています。新潟では見ることのできない「巨木」です。


吉野ヶ里遺跡の様子。


もう二度と来ることが無いと思って見学しました。
写真も沢山撮りました。その一部だけをここに載せました。

この他に資料館やお墓の跡などがありそれも資料館になっています。
次にそのことを報告します。

吉野ヶ里遺跡・吉野ヶ里遺跡公園に関する情報です。
興味のある方はご覧ください。

吉野ヶ里遺跡公園
https://www.yoshinogari.jp/

吉野ケ里遺跡Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E9%87%8E%E3%83%B6%E9%87%8C%E9%81%BA%E8%B7%A1

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2024年02月26日

OJIJIの旅-12①


OJIJIの旅-12①
2023年12月15日(金)

何の予定もなく、計画性も無い旅を続けている越後ojijiです(笑)
熊本城を後にして、そのまま佐賀県に行こうかと思いながら、突然頭に浮かんだのが
「阿蘇山」でした。活火山である「桜島」を見た後にここまで来たのだからやっぱり
「阿蘇山」もみたいよな・・ 阿蘇山も火山だし。
昔、九州に来た時に大分~福岡県久留米市まで九州を横断した経験があります。
その時に見た「阿蘇山」が強く印象に残っていました。
もう二度と九州に来ることは無いだろうから(年齢的に!!(◍>ᴗ<◍))時間もあることだし
夜中だったのですが「阿蘇山」の方向に向かいました。
勿論、地図と道路標識だけが頼りです。通ったことの無い道を真夜中に走りました。

「道の駅 阿蘇」というところに着き。そこで仮眠をとって朝を待ち、
雄大な阿蘇山に出会えると思っていました。

が・・・・

当日の朝の「阿蘇山」です。雲がかかって阿蘇山が良く見えませんでした。
阿蘇山はいくつかの山が集まった山々の総称でもあります。
メインの大きな山がありそこにへばりつくように山々があります。
富士山や桜島のような形ではありません。





道の駅阿蘇です。


道の駅阿蘇にある阿蘇山のジオラマです。
こんな風に雄大な「阿蘇山」に出会うつもりでした(笑)


初めて知りました。
クレヨンしんちゃんの母親「みさえさん」は熊本県出身という設定だったのですね。


雲がかかっていますが「阿蘇山」です。


「阿蘇山」


色々な角度から撮影「阿蘇山」


「阿蘇山」




雲が切れるかなと少しねばったのですが・・・

国道57号を熊本市方面に戻りました。
国道3号線に合流して佐賀県を目指しました。

朝早くから動いていました。
久しぶりにマックのモーニングセットを食べました。


最近見なくなりました。このマクドナルドの店で出会いました。
「マック君」と言うのでしょうか?、それとも「ドナルド君」?


国道3号線で福岡県久留米市に着きました。
久留米ラーメンを食べました。


久留米市を後にして国道を走ると佐賀県に入ります。
次の目的地は「吉野ケ里遺跡」です。

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2024年02月24日

OJIJIの旅-11③


越後ojijiの旅-11③
2023年12月14日(木)

熊本城に着きました。
熊本城に到着した時は既に日没でした。
ライトアップされた美しい「熊本城」を写真におさめました。
水俣市から熊本市までの途中記録はこの熊本城の話の後に書きます。

ライトアップされて「威容を誇る『熊本城』です。














熊本城を築城した「加藤清正」公の銅像です。


熊本城は2016年4月16日の「熊本地震」で大被害に遭いました。
あれだけ堅牢であったお城が崩れたのです。
震度7というのは強烈な破壊力です。
熊本城は日本国の大切な観光資源です。
行政はこの大地震にひるむことなく、すぐに「熊本城再建」を決めて
現在も大工事が続いています。
熊本城の周りは公園になっています。夜間にこの公園部分から
慣れない夜間撮影をした写真です。公園の木が写り込んでいたり
工事中の様子なども写っています。こんな機会は二度とないと思い
沢山の写真を撮りました。しかし、ピンボケも多く、ここにアップしたのは
程度の良い写真なのです(笑)(笑)(笑)

前後しますが熊本市につくまでの様子です。
国道3号線を「八代海」沿いに走りました。
九州には歴史的に古い色々な伝説等があります。
海沿いを走っていても随所でそんなところに出会いました。


穏やかな八代海です。



ハイビスカスが美しく咲いています。
ハイビスカスと言えば沖縄が連想されますが、このように美しく咲いていました。
やっぱり、九州だなぁ~。


熊本市(熊本城)に着く途中で「大好きな焼肉バイキング」のお店に出会いました。
こんな店があるのか。絶対に食べていかねば(笑) と思い食事をしました。
後で調べたのですがこのお店は九州にだけある店でした。
現在4店舗チェーン展開しているようです。
いつも焼肉食べ放題の「スタミナ太郎」を利用しているOJIJIは「似ている」と思い
感激しながら美味しいバイキング料理をいただきました。(笑)
計画性の全くない旅です。食事も目に入る食堂等で済ましていました。
バイキング形式の食事は多少とも栄養に配慮した食事ができます。
野菜等は多く食べられます。


♪♫焼肉、焼肉、食べ放~題♬♪ そんな歌を思い出していました。


ランチ営業なので1時間限定なのですが沢山食べました。


熊本城に着くまで3000㌔走りました。
熊本城に着いたときに示された距離です。
新潟から3000㌔走ったのです。
12月14日の夜です。外気温が16℃を指していました。
真冬の九州は暖かだったです。


熊本城を後にして「阿蘇山」を目指しました。
明日は「阿蘇山」を見たいとおもって夜中に走りました。

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2024年02月22日

OJIJIの旅-11②


越後ojijiの旅-11②
2023年12月14日(木)
水俣病について考える。

『水俣メモリアル』
水俣病被害と人の命をイメージしたオブジェです。


鹿児島県出水市と熊本県水俣市は隣接しています。
この標識の裏には鹿児島県出水市と書かれています。


国道3号線を走っているとミカン畑がいたるところにありました。
暖かい九州・四国はミカン栽培が盛んなんだと実感しました。

これは「夏みかん」です。


これは普通の「温州みかん」です。


水俣病を学ぶ資料館は「まなびの丘」というところにあります。
ここは水俣市のエコパーク水俣(水俣広域公園)という広大な公園に隣接しています。
国道3号線からすぐのところです。



水俣病資料館に着きました。


修学旅行でしょうか? おおくの子供達が見学に来ていました。


子供たちにとって大切な学習の場です。


『水俣病』という病気は他人ごとではありません。
読者の方々は「第二水俣病」という言葉を知っていますか?
「第二水俣病」というのは『新潟水俣病』のことです。
熊本県水俣で起こった大変な公害病が実は新潟でも起こっていたのです。
熊本・新潟の水俣病の原因・結果・その後などを書きだすとこのブログが終わりません。
過去のこととして終わっているのかもしれません。
でもいつまでも私達は考えなくてはならないテーマです。
以下を参考にしてください。
※熊本水俣病については
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E4%BF%A3%E7%97%85
https://medicalnote.jp/diseases/%E6%B0%B4%E4%BF%A3%E7%97%85?utm_campaign=%E6%B0%B4%E4%BF%A3%E7%97%85&utm_medium=ydd&utm_source=yahoo
※新潟水俣病については
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%B0%B4%E4%BF%A3%E7%97%85
https://www.humanservices.jp/wp/wp-content/uploads/magazine/vol50/49.pdf
ウィキペディアは必ずしも正しい情報を記載していません。
鵜呑みにしないで必ず検証をお願いします。by 越後oyaji


資料館の内部です。














水俣湾がメチル水銀で汚染され、食物連鎖で人間にまで害を及ぼした病気。
病気の原因とされたのが「有機水銀汚染の魚」でした。
現在は水俣湾は安全な海になっています。
タレントで水産学者の「さかなクン」からのメッセージもありました。


現在の水俣湾(八代海)です。過去にあんな大公害があり多くの人が亡くなり、
現在も多くの方々が苦しんでいる公害病の「場」となったところです。
そんな過去を微塵も感じさせないほどに「清浄化」され安全になっています。


水俣湾(八代海)は穏やかでした。


八代海(水俣湾)の名の通り水俣市の北に「八代市」があります。
「八代市」出身の大歌手「八代亜紀」さんの出身地です。
OJIJIが旅行を終えた後の12月30日に逝去なさいました。
この地域を車で走っている時に「八代亜紀」さんのことが
頭に浮かんでいたのを覚えています。がその後にお亡くなりになるとは・・・


水俣市を後にして熊本市を目指しました。
途中で食べた「熊本ラーメン」です。
「マー油」という独特の「油」を入れるのが特徴だそうです。


水俣病に関しては書くのも辛いです。
それは「広島平和公園」「鹿屋の特攻基地」の記事を書いたときと同じです。
でもそこまで行って良かった。命を考える色々な示唆を与えられた。
そう思っている越後ojijiです。
新潟水俣病に関してはいずれ書かなければならない時がくると思っています。
新潟水俣病を見つけた新潟大学のT教授ご夫妻とは医学と別の関係で親しくしていただきました。
また越後ojijiの関係者は阿賀野川沿いの自治体で医療関係に従事していました。
勿論、新潟水俣病と関わっていたはずです。
命について考えるときに「公害病」や「戦争」など
あってはならない事実と向き合わなければならない時は
本当に本当に辛いです。

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